昭和49年09月15日 特別奉修員



 合楽示現活動に参画と言う様な信心が、まっここで言われるようになって、毎日言うならば奇跡の連続という事ですけれども。今度はそれとは裏腹に取り分けここで熱心に信心のけいこをしておる方達の上に、様々な難関と言うか。又は難儀と言うか。そういうものが、もう一人ひとりの上にあっておるのに、私最近驚いております。その事を今神様にお願いさせて頂いたらね、それも奇跡だと仰るのです。
 やっぱりこれほど熱心な信心をしよる者の家に、どうしてこう言う事が起きたり、こういうような難関があったりするかという。もう、それが直接身の上とか、家の上なんかにない場合は、もう周囲からそういう事が起きて来てるですね。例えて言うとあの佐田さんなんかの、まあそれこそ一家を挙げて、まあ家には奇跡的なもう、毎日毎日が、御主人がお店から帰ってみえられると、もう御主人が座っておられる机の下に、隠しマイクでも置いときたい位に、素晴らしいおかげ話だそうですね。
 もう貴方はそげなおかげを、どうして話しなさらんですかて。所がねお婆ちゃんと奥さんに話しなさるのは、もう本当にあのお婆ちゃんと二人で話しますて、もうほんに恭造が話しよる事を、隠しマイクで取っといて、これは親先生に聞いて頂きたいと言う位な、もうそれは凄まじいおかげだそうですよおかげは。所がそれとなら反対にこれはなら、その奥さん辺りが、もう命にかけてと言われる位に。
 自分の里のあの神様を御奉斎申し上げると言う事なんか、もうずいぶん前からで、もう奉斎もう奉斎もう一家中が挙げて信心するかのように見えるけれどもです。もうそれとは反対にもう御立派に金の問題が起きておると言う事です。もうお母さんだけは、なら今度は反対に熱心に日田の方から参って来よんなさいます。ね。それかち思うとまたあの、皆さんも御承知のようにあれは何何やったかな。あ竹本さん竹本さんなんかがもう今までは本当にずうっと示現活動が出けておったんです。
 それがもうとにかくもう電話も掛けられんぐらいな、そのもう困難なとこ。所がならなら佐田さんの場合はそれをもう、それこそ命掛けで取り組んでおられる事柄がですよ、願い事がですよ。そういう大きな難関になっておると言う事です。これは先ほど平田さんがお届けされておられますけども。丁度甘木で一昨日から昨日にかけて、一夜信心実習会があった。いわゆる手続きの先生方やら、信者さん方が沢山集まっての研修会です。勿論甘木の初代、安武松太郎先生の信心を頂くと言った様なテーマの下にだったそうです。それでもうそのお話を頂きよって、頂きよってもう皆が助かっておられない、人達の話を聞きながらね、もう燃えて来た訳です平田さんね。
 そしてそのいわゆる合楽示現活動を只今こう言う様なおかげを頂いて、自分の手続き教会である、親教会である所の、まあ宮野の教会の若先生も、こういう風に一緒に。だから教会を挙げて、その示現活動に活躍させて貰う様な雰囲気が生まれて来よるという、そのおかげをですね、話された所がもうそれこそ、もう真っ向そりゃそうでしょうね、甘木でそれを話すんですから。もうアンタ筋が違うとるばい、アンタ道を間違えとる。それはもうそれを聞きながら、もうそれこそ泣き泣き今日はお届けされたんですけど。
 もう私は甘木館長を止めましょうかと、こう言うくらいに。だからこの位にへこたれちゃならんばい。甘木もなからなきゃ、久留米もない。どこの手続きもない。それが本当に今合楽で言われとる、言うなら神様の願いである所の、神も助かり氏子も立ち行く様な大きな運動と言うか働きという。そのしかも示現と言う事がね、もう私達が一生懸命頑張ると言う事じゃなくて、神様が先に立って不思議な働きを見せて下さろうとする、しかも言うなら世界の難儀と言うか。
 そういう難儀に取り組んで行かなきゃならんのだから、金光教の例えば甘木関係、又は久留米関係。又は合楽関係と何て言う様なね、その小さい問題じゃないんだと。金光教だけじゃないんだと。もうあらゆる世界中の、まあ人が助かるほどしの教えでも持っておるほどしの宗教であるならば、ね、言うならそういう人達が手に手を取る事が全教一家だとさえ、今合楽では言われておるのですから。
 そういう、例えば神を信じての生活者達がです。そういう力を持った人達が、手に手を取って、世界難儀に立ち向かわなければならんと言う様な時にです。合楽の先生はこう言われると言う事を言うたら、もうそれこそ真っ向からのような反対だ。さあ、そしたら家ではお父さんが、もうお前のごと神様、金光様ちゅうごたっとは、もう出て行けち言う。そんなら、離縁状を書いて下さい中途ころまで行っとるち。
 もう私はもうここから聞かせて頂きながら、はあ本当に信心っちゃやっぱり通るとこを通らなければならないなと言う事です。もう私はここで手叩いて喜びたい感じです。そこを乗り超えた時にこそです、今日はなら皆さんのお届けされた中にも。とにかく難関です。ね。これはもう今合楽で熱心にその示現活動でも本気で参画しようという、思うたりしよる方達の上には、そういう確かに難関がある、しかも揃いも揃うて皆がと言う事ん所にです。それもまた奇跡だと私は思うんです。不思議な事だと意味なんです。
 だからんならね、例えば死人が甦るとか。開けないはずの道が開けるとかね、昨日なんかあるこれは二億円からの金銭のお繰り合わせを願って、ある方の話でしたけどね。前からそのお願いに見えております。所がもう日にちが段々迫って、もう気が気じゃないんです。そしたら神様がねあの、神が嘘を言わぬ証を立てると仰った。そしてね公園で立ちながら取引するという意味の事を頂きましたよ。
 例えばそれだけのお金がですね、もうほんな簡単なもう立ち話的なね、立ち話ぐらいな事でお繰り合わせを頂く。だからその印を見せると仰る。と言う様にですねそういうなら神様が働き、おかげを下さると言う事。ない命でもそういう風におかげ下さると言う事がです。ならなぜ神様が下さろう、只そう言う働きが今、合楽で始っておるかという、訳を分からなければ、神様を悲しませるだけなんです。
 ようにですならそれとは反対にですね、それほどなら愈々神様の手にも足にもならせて頂こうかと言う様な人達の上に一つのね、難関がそこに待ち受けておったと言う事はどういう事かと言う事です。ね、今朝からの御理解のように。ね、それこそね普通では、物ば抱えきらないように。重量持ち上げ運動ですたいいわゆる。ね、又はここはとても、普通では飛び越えは出来ない様な所をです。それこそ一足飛びに飛べれるような、言うならば稽古をさせて下さる。そういう力を与えて下さる。
 言うならばここへも本気で体操。いわば折角示現活動に参画させて頂いても、助かるという事に繋がって行くほどしの為には、力が銘々いるんですから。ね、ここの難関私は突破して、こういうおかげが頂ける、そのおかげでこういう重たい物を持てるようになった。おかげで、ね、ここ普通では飛び越えられない所が、飛び越えられるようにな、言うならば、おかげを頂けれるようになったという時には、それは誰の力かって、皆さんの銘々の力なんです。
 その力を神様が与えようとしておられる。そしてその力をまた示現活動に、神様が駆使して下さる、使うて下さると言う事になるのじゃないでしょうかね。ですからそこん所をですね、あれ頼りこれ頼りてん何てんちゅう様な事せず、もうこれっこそ神様がね立ちながらそれこそ2万円、2億円位の金なら、立ち所にこうやってね、あっちこっち心配する事はいらん、その印を見せて下さる程しのおかげなんです。そういう私はおかげを頂く為に。ならあそこに頼んであの人に頼ってと言った様な事で。
 そこが只おかげ頂いたのであっては、突破したと言う事にはなりません。矢張り神様一途、信心一途でそこんところが乗りきられ。ね、もう本当に今佐田さんの例を取りましたように。もう、これほどしの願い、これほどしの思いが今まで順調に行っとったのが、反対にひっくり返ってしもうて、もうもう普通ならサジを投げたいような、自分の(首?)でもないのだから。
 サジを投げたい様な所に直面しておられるけれども、これは何としてでもどうでもこうでもおかげ頂かなきゃならんという、信心にまあ燃えておられますようにね。今合楽で言われておる奇跡が続出¥しておると言う事は、ただ楽な方面においての奇跡だけではなくて、言うならば苦しい事、難儀な事が重なり重なっておると言った様な事もです、これ一偏に出て来た感じがする。是も矢張り奇跡だと。それを解決した時に初めて神様の心の奥が分かるのです。ね、または自分はそこを通り抜けた時に、力を頂いておるのです。
   どうぞ。